コラム

海の近くに住むことと、カフェで働くこと。



「おいしい」という言葉は、わりかし”空っぽ”である。

カフェで働いていると「おいしい。」とよく言ってもらえる。
もちろん嬉しい。

でもある程度関係性のあるお客さんの場合、
僕はあえて「どこが?」「なんで?」「なにが?」と、少しいじわるする。

すると、ほとんどの人は「えーっと….」となったり、「味が!」と、なんとなくごまかすわけで。
そこに明確な理由なんてない。

ぼくはどちらかというと論理思考なタイプなので、「なんで?」「どうして?」を常に自問自答しているのだけど、
というか、僕だけじゃなく、大人になるとみんなそうだ。
あらゆることに理由を求められる。

行動する理由、そう考えた理由、そう感じた理由。
これに答えられないと、何も考えてないと言われる。大人なんだからちゃんと考えろ。と。


「おいしい」という言葉は、わりかし”空っぽ”である。

冒頭のこの一文を読んで、もしかしたらこの一文にマイナスイメージを抱いた人がいるかもしれない。
「空っぽの言葉じゃだめかな?」と。



逆だ。

空っぽでいいじゃないか。
なぜ感情に理由を詰め込まなければいけないのか。
ごはんを食べた時くらい、理由もなく、ただ感じたままの思いを言葉にしたい。
語彙力とか、論理性とか、どうでもいい。
頭なんて使いたくない。
おいしいって思ったんだから、おいしいんだ。


「おいしい」という言葉は、空っぽだけど、なんだか温かい。

頭の中で論理的に、相手を納得させようとあれこれ考えた言葉ではなく、
ただ感じたまま、ぱっと頭に浮かんだ感情をそのまま口にした言葉だから、たぶんまだ体温が残っているのだと思う。
とても新鮮な言葉だ。


海の近くに住んでいると、毎日新鮮なお魚が食べられて幸せだね。と言われる。
カフェで働いていると、毎日新鮮な言葉をいただけて幸せなんだな。